さようなら原発全国大集会

9月23日(火)
私、内田ひろきの後援会である柏の自治力を活かす会の仲間と7人でさようなら原発全国大集会に決起した。
会場の亀戸中央公園には、1万6千人が結集した。
シュプレヒコールを上げながら、結集した仲間が一丸となって錦糸町駅周辺までのデモをやり抜いた。
私、内田ひろきは3・11以降、反原発の立場からこの3年半を総括した。
被曝労働にみられる劣悪な環境の中で、税金だけ吸い上げられる労働者の使い捨てが露呈した。
いつも99%の労働者・民衆が、たった1%の資本家・支配者の既得権を守るために犠牲となるのである。
放射能は、直ちに健康に影響はないと報じられた。
しかし、言い方を変えれば、いつかは健康に影響があると言う事なのだ。
言葉巧みに巧妙な手口で、民衆をだます正に、ある種のサギなのである。
アメリカ、財界、マスコミによる闇の三権分立によって情報が封じ込められている。
大手マスコミは東電から多額の資金供給を受けている為、真実だとしても東電に都合の悪い事は報じないのである。
金が物言う資本主義が作り出した利権構造を打倒する闘いの勝利は反原発、脱原発にこそある。
反原発、脱原発の闘いは新自由主義と名ばかり民主主義を粉砕し、真の民主主義を勝ち取る闘いなのである。
原発を廃炉に追い込んだとしても電気は十分足りている。
計画停電がまやかしだった事は、火を見るより明らかなのだ。
原発事件以降、実際に関東甲信地域では、原発は1機も使用していないのだ。
一方、火力発電の原料となる液化天然ガスは多くを輸入に依存している。
日本は、電力に変えられる再生可能エネルギーをドブに捨てている。
原発を廃炉に追い込み、液化天然ガスの輸入を減らすためには、電力の地産地商が必要なのである。
ここに新たな地元雇用も産み出す事ができる。
しかし、これには一つだけ障壁がある。
本来、道路や水道管と同じように扱われる送電線を東電が独占しているのだ。
自治体が、東電から送電線を没収する事で電気料金を安価にする事もできる。
私、内田ひろきはあの悲劇を原発事故として片付けたくはないのである。
誰が何と言おうと原発事件、原発犯罪である事を強く主張する。
原発は、安全か危険かと言う概念だけではなく、国策による政治的な差別構造の上に成り立っている。
また、原発はいつでも核兵器に転用できるからなのである。
政府は、こうした原発を輸出までしようとしている。
アベノミクスによる金融緩和と円安政策は、原発を輸出しやすくするための暴挙なのである。
消費増税によって労働者・民衆からの搾取を強化し、輸出企業に課税分を還付する輸出戻し税なる仕組みは原発輸出を後押しする事になる。
そもそも、近代の日本は政策として、食料とエネルギーを輸入に依存してきた。
これが大きな誤りだったのである。
食料とエネルギーを国内自給しない限り、金融緩和と円安政策が進めば進む程、雇用は失われ格差と貧困は拡大し、物価だけが上昇してしまう。
物価が安価になると言ってTPPに参加しても、食料とエネルギーの輸入は、より加速するのである。
この結果、家計の負担はより重くなる。
家計の負担を重くしておいて、やっぱり安価な原発が必要だったと言うデタラメな論理とデッチ上げ世論操作に対し、断固糾弾するものである。
反原発と反液化天然ガス輸入を達成するためには、再生可能エネルギーに転換する以外の選択肢はあり得ないのだ。
オリンピックファシズムを利用し、アメリカ、財界、マスコミによる闇の三権分立が結託して、原発事件を闇に葬ろうとしている。
公共の福祉に反するこの寝た子を起こすな思想を粉砕し、経済成長の美徳化とGDP神話を打倒する闘いが必要なのである。
原発犯罪を含む国策暴力から見えるものは、アベノミクスとTPPは水と油の関係であり、溶け合う事のない矛盾だらけの政策でしかないと言う事である。
オリンピックは原発犯罪を幕引きにするだけではなく、優生思想の暴挙が労働者・民衆を虐げる。
私、内田ひろきはオリンピックとパラリンピックを断固として否定するものである。
オリンピックは優生思想を生み出し、優生思想がオリンピックを作り出す。
どの国にあっても、オリンピック自体を粉砕しない限り、この悪循環は永遠に続いてしまうのだ。
また、反オリンピックを論ずる上では優生思想だけではなく、差別と排外主義の攻撃を跳ね返さなければならないのである。
2020年に開催される東京オリンピックは、開催までの過程で大きなファシズムの流れが作られる。
がんばろう日本の名の下にマスコミを含む資本権力は、一人一人の個性を奪い取り、民衆を分断し、権力の側に与しようとする策動を加速させる。
この策動で、自由競争と戦争に使える命か使えない命かの選別が始まってしまう。
五つの具体的な例を挙げて論ずる。
かけられる攻撃の一つには、オリンピック開催に向けた施設整備を大儀名分とする再開発によって、野宿者を締め出し、労働者に対する搾取と分断が仕掛けられる。
二つには、スポーツを使った能力主義による序列である。
民衆同士の競争をあおり、点数と記録で国のために使える人物かどうかを選別し、使えない人物は切り捨てられる構造が作られる。
三つには、猛烈な「障害」者差別と資本権力が操作する排外主義からくるナショナリズムで、国のためにならない命が抹殺され兼ねないと言う事である。
「障害」者抹殺攻撃の準備は、オリンピック開催と合わせ、出生前診断の技術開発や脳死臓器移植法の制定などで、しくしくと進められている。
また、アジア近隣諸国の人民に対するヘイトスピーチや現実を直視しない歴史認識などは、外国人を抑圧する凶器となっている。
四つには、パラリンピックは国のために役立つ「障害」者かどうかを選別するものさしになっている事である。
パラリンピックの狙いは、観戦する民衆にがんばっている「障害」者は偉いと言う概念だけを植え付け、「障害」者を能力で縦に並べようとする事なのである。
五つには、天皇制が本格的に表舞台へ出てくる事で、完全なる国家主義が確立してしまう。
民衆統制の始まりは、身近で大多数の人が入りやすいお茶の間の話題である。
スポーツで平和の祭典とメディアが報じれば、民衆統制の入口は、簡単に切り開けてしまうのだ。
一度入ったら抜けられない身近で大多数の人が入りやすいお茶の間の話題は、またたく間に危険な方向へと舵を切る。
オリンピックの開会式出席や出場選手激励などに登場する天皇は、多くの人々にとって市民派天皇と捉えられている。
マスコミも演じられた市民派天皇を映し出す。
この裏側で、ファシズムが動き出すのである。
ファシズムは、強固な優生思想の上に成り立つ。
前述した五つの具体的な例は、ただ単に能力主義を批判しているのではなく、天皇制と一体になった国家主義、生命抹殺に依拠するファシズムを指摘するものである。
オリンピックとパラリンピックは、世界中に偏狭なナショナリズムを作り出し、国のために使える命か使えない命かを選別するための形に表れる事のない現代版のアウシュヴィッツなのである。
財界と官僚にとって、日本におけるオリンピック開催の大きな狙いは、前述した五つの具体的な例をどうどうと政治の枠組みに取り入れ、市民同士が監視し合いながら、国のために競争させる仕組みづくりを強権強行する事にある。
オリンピックを観戦する人々に感動と勇気を与えるメディア中継の裏側で、気づかぬ内に、いつの間にか現代版のアウシュヴィッツに送り込まれてしまう。
また、送り込む権力者にも成り得る。
これが、優生思想をむき出しにしたオリンピックの正体なのである。


南柏で集会決起を呼びかける内田ひろき

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